※大楽ライビュを見たそのままのパッションで書いています
禺伝おつかれさまでした。
舞台刀剣乱舞が好きな者として、物語や演劇を愛する者として、この社会を女性という性で生きる者として、この上なく勇気をもらえる、素晴らしい作品でした。
2週間前に現地で観劇した時もそれはそれは感動したのですが、改めてライビュで大千秋楽を見て、思いが溢れてきたのでこれを書いています。
現地観劇の時に思ったことは以下。ぐでんを誤字してるのは見逃して…
愚伝まとまりのない雑感 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ https://t.co/JOhn9SZ4m3
— ゆーと (@yuyuto_1) 2023年2月5日
ここからは禺伝矛盾源氏物語という作品へのクソデカ感情です。
今週のにごりりに「アートというのは作品と鑑賞者の間に生まれるもの」という言葉があって、深く感銘を受けたのですが、舞台ってものすごく「それ」だと思います。
例えば舞台上で役者がどんなにがんばってホッチキスのでかい針を持って走って「これは自転車なんです!」と叫んでも、観客が「そう」思わないと成立しないわけです。けれど舞台上と観客の想像力さえあればなんだって作れる、なんだって生み出せる、それこそが舞台の素晴らしさなんだ。……っていうことをレポートに書いて数年前大学入試に受かったんですが。
禺伝のプロジェクトが発表された時、わたしはすっごくワクワクしました。「女」性が演じる刀剣「男」士、なんて踏み込んだことをするんだろう!と。今までも舞台刀剣乱舞シリーズからは単なる2.5次元舞台では終わらないぞという演劇界への意気込みを感じていたのですが、例に漏れず攻めの姿勢を見せてくれて、ドキドキが止まりませんでした。絶対面白くなるし、女性が演じることにこそ意味があるのだろうと思った勝手な希望は、この2月、期待以上の形を持ってわたしの前に現れてくれました。
けれどインターネットにはわたしのように純粋にワクワクしている人だけがいるのではなく。
企画発表時、ワクワクしつつ正直荒れるなと思いました。長年インターネットでオタクをやっているとこういう勘が育ちます。そしてやっぱり荒れました。「女性が刀剣男士を演じないでほしい」という声を目にしました。もちろんそう思うのは人それぞれなので仕方ないことですが、わたしはただ、もったいないなぁと思いました。そういう枠組みだけで物事を拒否していたら、素敵なものに出会えないかもしれないのに。無限の可能性がそこに広がっているのに。
蓋を開けてみれば矛盾源氏物語、そういった企画発表時の声に対するアンサーでもあったように感じました。当時お気持ち表明していた方々がこの作品を見たのかはわかりませんが、見ていてほしいなと思います。
だってそこには刀剣男士がいたんです。
作り手と受け手の間に生まれるのがアート。我々観客が舞台上にいるのは刀剣男士だと思えば、それは真実になるのです。嘘の物語を受けて生まれる心が本物であるように。
正直今までの舞台刀剣乱舞において、わたしは単なる消費者でした。原作ゲームをやっていないこともあり(ソシャゲ続かないマンなのです、ごめんなさい…)、審神者であるという意識も全くなく、ただ面白い物語に心を動かし消費しているだけの人間でした。
けれど禺伝は、すごく、「わたしの話だ」と思いました。
そのへんは冒頭に載っけたふせったーのリンクでも言ってるので割愛しますが、カーテンコールで一生懸命拍手をしながら思っていたのは、「やってやったね!」という謎の達成感でした。今までは「素敵なものを見せてくれてありがとう!」という気持ちだったところ、今回はどうしてか「一緒に作り上げたね!」と思っていました。
おこがましいにもほどがあるかもしれませんが、わたしはこの気持ちがあったからこそ、舞台刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語が完成したと信じたいのです。
自分が舞台に立つ側でもあるからこそ、舞台上での孤独や不安がわかります。どんなに自分や仲間を信じてお稽古してきても、全ては観客に委ねられるからです。カーテンコールで涙混じりに話すキャストの皆さんを見ていて、その孤独や不安に耐えて創り上げてくださったことに経緯を評し、万雷の拍手を送りたいと思いました。
舞台が好きな理由のふたつめに「リアルタイムで作品が生まれる瞬間を共有できること」があるのですが、まさに禺伝はこの時を共にできて良かったなと思いました。歴史の一片の目撃者になれました。
ありがとう禺伝、やってやったね禺伝。
素晴らしく美しい地獄を、ありがとうございました。明日からもこの美しい地獄を愛して生きていきます。